COVID19への過剰診療を「2類感染症ですから」で正当化するのが誤っているワケ(前編)からのつづきになります。
「2類感染症法相当だから」が論理的に破綻していることは前述しました。
では、なぜ検査積極派の人々は、このフレーズを使いたがってしまうのでしょう。
筆者の視点による考察を中心に書いていきます。
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-1.相手を黙らせる必要があるのは、自分の思考が停止しているから
Ⅳ.盲目的抗原検査に意義はない――クラスターを人為的に作り出しているのはあなた――
-1.過度の検査は集団ヒステリー
-2.COVID-19はホントに調べないといけないの?
Ⅴ.まとめ
Ⅲ.けっきょくは全体主義
まず、「2類感染症だから」というフレーズを使うと、水戸黄門の印籠のごとく、たいていの人が委縮して反論しなくなることを検査積極派の人々は知っているからだと思います。
-1.相手を黙らせる必要があるのは、自分の思考が停止しているから
つまり、相手を黙らせて議論の余地を挟まないようにする意図と、法律で決まったことだから、と思って考える努力を放棄できる、という二つの理由です。
ですが、前述のとおり、COVID-19の検査を行うのは、「2類感染症だから」ではなく「流行しているから」ですよね。
「流行しているから」調べるのであれば、それは普通の診療と同じ考え方をするべきなのです。
●手足口病が流行っているから
●インフルエンザウイルス感染症が流行っているから
●RSウイルス感染症が流行っているから
というのと同じです。わざわざ相手を黙らせる必要がどこにあるのでしょう。
検査積極派の人々が相手を沈黙させようとして議論すらさせない姿勢をとりたがるのは、彼ら自身もあまり深く考えていないからです。
「2類感染症だから」と、それ以上考えることを放棄してしまっているのです。
筆者の経験則になりますが、検査積極派の人々に対して検査の意義を説いても、彼らの大半はだんだんと居丈高になり、感情的でヒステリックな会話に終始しがちになるのです。
たぶん、他にも身に覚えのある方、いるのではありませんか?
つまるところ、検査積極派にとって、相手を黙らせて自分の意図に従属せしめる、そのために「2類感染症だから」というフレーズを使っているだけです。
これと似た事象があります。
それは戦前・戦中の日本人たちです。
国民の大半は、積極的に「アメリカや中国と戦争をするべきだ」と騒ぎたて、真珠湾攻撃の報道がラジオで流れるや否や、涙を流しながら歓喜の声を挙げたといいます。
これに異を唱える一部の人々は、憲兵たちに連行され、暴力によって沈黙させられました。
今の日本は、意見の多様化と言われながらも、いつまでもマスクを着け続けたり、患者が発熱したら週に何度でもコロナの検査をしてみせないと、例えばICT委員会を称する人々から執拗ないじめに遭います。
「スタッフと仲良く円滑に業務を行うには、口応えをせずに全体の流れにのるのが一番の処世術だ」
と、みんな知っているので、意見をさしはさむのを控える・・・・・・。
こうした泥沼の底に沈んだ現場では、やがて、誰も何も考えずに、漫然とした抗原検査の強要に手を貸し続けることになるのです。
Ⅳ.盲目的抗原検査に意義はない――クラスターを人為的に作り出しているのはあなた――
コロナ患者が発生したら、多くの病院では病棟の入院患者やスタッフを対象に一斉検査を行っているようです。
前述したように、2022年11月に至っては、もはやCOVID-19はただの感冒にすぎません(ホントはもっと前からそうでしたが)。
ただの感冒に、なぜわざわざ一斉検査などを行う必要があるのでしょう。
むしろ、やってみせないと他の施設から突出してしまうからというのが本音ではないでしょうか。
この非建設的な全体主義は、感染者が出るたびになぜか謝罪会見をひらいていた政治家や病院経営者たちのオドオドした姿を連想させますね。
ちなみに、あの謝罪会見は、なぜ、何についてあやまっていたのでしょう?
そして、どこかの誰かが無意味に謝りだすと、自分も謝ってみせないといけない、という奇妙な連鎖が始まって、小児でも首をかしげる謎の会見が後を絶ちませんでした。
日本が全体主義に染まりやすい性格の国だと考えれば、うかつに無意味な会見を開くと、他の政治家も病院も、たとえ無意味なことと悟りながらも同じ蹉跌を踏んでみせないといけなくなってしまいますよね。どうしてそういう理性的な判断ができなかったのか、とても不思議でなりません。
-1.過度の検査は集団ヒステリー
少し話がそれてしまいました。
やみくもな抗原検査の強要について、実は法的根拠は乏しいのだいうことは、COVID19への過剰診療を「2類感染症ですから」で正当化するのが誤っているワケ(前編)ですでに述べました。
ゆえに、現場で頻発している無秩序な一斉摘発検査の強行には根拠がありません。
主に感情論が先行したパフォーマンスに過ぎないことから、一斉検査の強行とは、集団ヒステリーの典型例であり、悪質な宗教団体と質が同じものです。
なので、いくら論理的に意味が無いことを説いても、理解を得ることは難しい・・・・・・。そういう心理現象の一種にすぎません。
残念なことに、「コロナは検査しなければならない」「検査しないなどけしからん」という強迫観念を取り除かない限り、検査積極派は何十回でも何百回でも猟奇的に同じことを繰り返します。
検査とは「本当に詳しく鑑別するべき時に行うもの」なのですが、相手が異常な心理状況に支配されてしまっていると、そうした本質的な部分の議論が通じないのです。
ましてや、「自分たちがちょっとやり過ぎてないかな」などと振り返ることもありません。
やがて、執念に燃える検査積極派の人々は「検査とは患者に強いるものである」ことすら眼中に入らなくなり、検査対象者が看護学的にも全人医療的にも心身と財産を守るべき”患者さん”であることを忘れ、何度でも無思慮に、かつ無遠慮に鼻腔へ綿棒を突っ込みつづけるのです。
一部の弁護士の法解釈では、「抗原検査は侵襲性が低いので集団の利益性が上回る」という主張がなされていますが、彼らは現実に毎週3回も検査を強要されている入院患者に向かって同じことをいえるのでしょうか?
ただの感冒なのに、法的根拠も乏しい中で社会的拘束と度重なる無意味な検査を強要する行動は、人権擁護の観点から看過できないのではないかと思うのです。
-2.ホントにCOVID-19は調べないといけないの?
本質的なことを尋ねますが、ホントにCOVID-19は、調べる意義があるのでしょうか?
感冒ですよね。
厚労省が療養期間を短縮して明らかなとおり、うつっても大したことがないのです。
そもそも、「うつっても大したことがないように」という前提で、”すすめ、1億火の玉だ”精神の如く、非常に強い同調圧力のもとでワクチン接種事業が始まりましたよね。
ワクチンを打たないなど非国民、と言わんばかりに、自己判断のできない認知症患者にまで押さえつけて接種させていましたよね。
それが正しいことだと信じ込みながら。
だから、もはや「うつっても大したことがない」そういう前提で世の中が動いていることになっているはずです。
なのに、なぜ検査積極派の人々は、いつまでたっても法的根拠に乏しい集団検査を強要するのでしょうか。
批判を覚悟で書きますが、
「うかつに」調べてしまうと、感染症法が「うっかり」適合されてしまい、患者を社会的拘束においこみ、病院経営を更なる窮地に陥れてしまう。それが医者の良心に響かないのか・・・・・・。そのように感じませんか?
(「検査をするな」と明言することはできませんけれども)
半強制的にワクチン接種のお触れを出され、疫学的にただの感冒と証明された後になっても、COVID-19を徹底的に検査してみせないと気が済まない・・・・・・。そうした検査積極派のヒステリー性心理状況に患者が巻き添えにされているだけではありませんか?
陽性者が感染者とイコールではないことは、もはや世間の常識になっています。
無症状の人を捕まえて実質的に検査を強制して(検査後に”同意”させて)、陽性だからと社会的拘束をする・・・・・・。これが危険な感染症ならわかりますが、もはやそんなステージではありません。
そして、「2類感染症だから」もホントは通用しないことは前編で述べたとおりであり、検査を強要する一方で、彼らは感染症法や特措法の原文や各原著論文も熟読もせずに、「法的にさせられているから」と刷り込まれているだけです。
なので、多くの人が無駄な検査をしなくても済む根拠をより明確化するために、一刻も早く「2類感染症相当」をやめるべきなのですが、どういうわけか政府、および分科会を称するごく少数の自称専門家の集団は、「2類感染症相当」に固執したままです。
【→尾身会長「5類の話をするのは今ではない」(2022年11月11日)】
もはや「2類感染症相当」など、弊害しかない決まり事ですが、2022年11月24日になって、ようやく「見直しの検討を始める」程度しか報道されていませんので、国民の声が彼らに届くことは絶望的です。
※27日になり、厚生労働省大臣が早めに検討する、と再度言及したようですが、遅すぎです。
以下の外部リンクのごとく、2020年9月の時点で過剰対応への苦言、および政府の「指定感染症を見直す」という発言がありましたが、それから2年以上も経っています。
【→「コロナの弱毒化」は否定できない!?|寄稿|連載・特集|Medical Tribune (2022年9月4日】
であればこそ、現場で働く我々は、政府の足りない部分を補って協力していくためにも、抗原検査自体の意義をしっかりと考え直すべきなのです。
闇雲に病棟の患者にCOVID-19の抗原検査を行って「10名陽性」「20名陽性」など、ハッキリ言ってどうでもいいことです。
ましてや、ニュース速報もいりません。
感冒なのですから。
無症状の人々を含む陽性者を形式的にクラスターと呼称して病棟を閉鎖したり病院機能を停止させたり、自らの行いで自らの病院経営を赤字に追い込んでいる・・・・・・。それが現状です。
みなさん、いいかげんにちょっと目を覚ましましょう。
すなわち、現法のままでCOVID-19などうかつに調べていいものかどうか、と。
COVID-19抗原検査などは、常識的な診療上の行為として、鑑別に挙げながら検査をするべきであって、いたずらに検査をして無意味な数字だけの陽性者とクラスターを発表してみせる行いの、どこに社会的有益性があるのでしょうか?
「発熱したから検査」
という発想は、素人でもできます。
国民が医療従事者に求めているものは、ほんとに検査をするべきかどうか、その専門的見地にたったうえでの見極めなのです。
いまいちど、
「発熱したらコロナの検査をするものだから」
「コロナの検査しないなどけしからん」
という全体主義や集団ヒステリーから抜け出して、我々は一般的な物の考え方に取り組み直すべきではないでしょうか。
Ⅴ. まとめ
COVID-19を過剰に恐れ、過剰な検査を行うべきではない。
「2類感染症相当だから」を理由に挙げる人は、実は何も考えておらず、全体主義に支配されてしまっている。
良識と良心をもって仕事をするならば、社会的有益性を真剣に考え、うかつな盲目的検査は控え、あくまでも必要に応じた検査に切り替えるべきである。
政府と分科会の対応の遅れが、国民に有害性をもたらしている。これはまじめに非難されるべきであるが、現状を呼んだのはメディア報道と全体主義の国民側にも責任があるのではないか。